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余韻とあっけなさ さよならだけが人生なのだな 映像はあっけなく消える。プロジェクターの電源をカチッと切ったら跡形もない。展覧会ではたいてい映像は付けっぱなしなので、あまり経験がないかもしれないが、クローズの時間に居合わせて、ブンッと映像が切れて行くところを見ると現実に引き戻されるようでハッとする。「はい、さようなら」とばかりに引き際が早くてさみしいような、未練がましくなくて潔いような。そこに絵画や彫刻など物体が残っていればなおのこと違いを感じる。薄いモニターや壁に映すだけのものは「あ、なかったのかな」と思ってしまう。壁の年季にもよっても残像が違うのだけれど。 一方、映画館の白いスクリーンは、いろんなフィルムを映して来ただけあって、意外と気持ちを引っ張る時間がある。エンドロールがあってフェードアウトするというなだらかな間があるからか、劇場に灯りがついても(画面の外に出て来ても)余韻がある。 仮設か常設かの違いもあるかもしれないが、余韻もそっけなさもどっちも気持ちよさがある。余韻を煽られればしらけるし。何も残さないのもスパッとして気持ちがいい。度合いというより、それぞれの正直さかもしれない。 アニメーション「鉄コン筋クリート」を見た夜道、シロやクロが渋谷の高速道路やビルをすり抜けて飛んでいるような気がした。「E.T」を見た学校帰りに、友達と自転車をガンガン漕いだ夜を思い出した。空飛んで自力で海渡れたらなーっ、なーっ。 ![]() 鉄コン連載時はスピリッツを買っていた。「青い春」「ゼロ」「花男」……。松本大洋のマンガは、芯はマンガど真ん中なのに様式がセオリーから外れているためか大人気ではなかった。当時「もっと広くウケるものを」なんてだめな編集者しかいなくて、なおかつストーリーを変えてしまうようなマンガ家だったら今はないはずだ。例えば、電車のなかで向いに座っている人を見ながら頭の中で松本大洋の線に変換すると、するすると線が成り変わって肩の落ちたしわとか、曲がった足とか「ああ、リアルなんだな」と思う。デフォルメも省略もあるのだが、記号化ではないからかもしれない。いま連載中の「竹光侍」では、時代劇を筆で描いているが、松本大洋は毎回スタイルや手法を実験しながら変えて描く。「竹光侍」を描く前に、浮世絵を相当見たという。横顔でさらりと片目が顔から飛び出て平面に収まっていたりして大胆だ。 鉄コン、ピンポン、竹光侍しかり、主要人物をペアにして両方の視点で物語を進めていくのがうまい。ヤクザの鈴木(ネズミ)や今村など、脇役もそれぞれの人物を尊重した群像劇にもなっている。渋谷川や下北沢が出て来るとか、実録の音響や役者陣の声のせいもあるかもしれないが、これは映画だ。アニメーションなら、リアルなロケーションでは限定されてしまう条件を飛び越えられるし、情報量も増やせるなど、いろいろなメリットから絵を選んでいるが、マイケル・アリアス監督の身体に染みついているのは映画だ(経歴を見ると実際実写に関わって来た人なのだが)と思う。STUDIO 4°はアニメーションスタジオだけど、アニメーションの世界にユートピアを託すというよりももう少し現実に踏み込んで融合したもの、従来のアニメーションからも(たぶんシステムからも)外れるものをつくっているような気がした。完全リアルにはしないというラインも守っているのだけれど。ただ、実写だったら失敗しそうだけど、人間が演じて起こるズレから生じるものもきっとあり、アニメーションというものは水準が高いほど統制がとれすぎる危険もあるのかな。 ![]() 速く読み進めない松本マンガに比べると、背景をガッと一時に把握しきれないほど映画はテンポが速い。でもそれは現実の認識に近いし、都市のめまぐるしい変化のようでもあるし、背の伸びに追いつかなくて内側がぎしぎし痛むようなシロとクロの成長のスピードでもあるかもしれない。この映画は色づかいや躍動感や絵だから気づかせることができる触感などたくさんいい点があるのだが、都市の再開発に釘を刺していることや、クロが自身の闇であるイタチと向き合うところ(大人になること)、クロやシロが闘って血を流すところなども、ごまかさないで正面切っているのもいい。と同時にシロが象に乗って空想の世界に入っていくシーンなんか色鉛筆のようでいいんだなあ。あの動物や植物たちとの戯れに、松本大洋の母である詩人、工藤直子の詩の世界と共通するものを感じる。吉祥寺のバウスシアターのレイトショーなどもあるので、未見の人はぜひ! http://www.tekkon.net/index.html ![]() アスミック・エース提供 東京都現代美術館で一室、上海ビエンナーレにも出品している中国の作家、邱黯雄(チウ・アンション)のアニメーションが上映されている。http://www.mot-art-museum.jp/kikaku/88/ インスタレーションと言ってもいいのかもしれない。「新山海経」という3面(時に2面)の大型作品は、中国の「山海経」という地理書(ただし地上の人間界を超えた世界を著す)を下敷きとしている。怪物や妖怪めいた生き物たちの戦いに託して、近代化や情報化、戦争などの陸海空の侵攻が寓話的に描かれている。 ![]() 《新山海経》より 2006年 アニメーション キャンバスに墨絵の技法で描き足しながら撮影してつくられているそうで、動物とメカを組み合わせたりする絵の魅力はもちろん、余白を生かしたモノクロームの世界が頭のなかに浸透してくる。歴史を継承せずに変動していこうとする昨今の風潮にも問いを立てていて「成り立ち」について考えさせられる。 ![]() 海の上にぽっかり浮かんだ要塞のようなシーンでは大友克洋などを思い出したが、「日本のアニメーションはよく知らないんです。宮崎駿は好き」と言っていた(鉄コンも知らなかった)。もしかしたら、絵を動かしたり、異なる視点の画を組み合わせたりした、(絵巻のような)連続性のあるものをつくりたいという気持ちが先にあるのだろうか。あるいは、例えば雨が降るような、絵ができあがるまでの過程にアニメーション的なものを見たのか。絵に音や音楽も付けたかったのか。どちらにしても、そうなるとアニメーションをつくることになると思うのだが、やはり一枚の絵画を見ていても重層的に起こることを動画にしているような気がする。 ![]() ![]() もしかしたら見方が間違ってるのかもしれないが、見た目は同じアニメーション/映像作品で、自然や人間の世界観にも共通する詩的なものを感じるのだが、成り立ち方や表れ方は違うものだなあと思ったのだった。テンポも違うし。そう、リズムというよりテンポのことをよく考えるこの頃。 鉄コンでネズミの声を演じている舞踏家・田中泯を見て、アーティストは役者じゃなきゃと思いました。プロレスは役者が下手になってつまらなくなった。 たそがれ清兵衛 死に際の崩れ落ちん姿は、役者の演技では出て来ない。 http://www.shochiku.co.jp/seibei/ メゾン・ド・ヒミコ 憂いのあるおかま役、花柄とターバンをこんなに着こなせる人はそうはいない。 http://www.himiko-movie.com/ 最近は、場踊りに戻っているよう。踊りを田楽に戻して考える舞踏家はいるが、農業までもセクシーに見せる人はそうはいない。 |







