LOAPS TOTAL ART SITE

SERACH

現在の作品数:39586


SITE NOTICE
How to enjoy LOAPS
Privacy Policy
Contact
Volunteers
Help





注意! 以下の文章には過激な表現・内容が含まれています。


ショーペンハウアーは、ベルリン大学で自分より上の地位にあったヘーゲルの哲学を公然と見下していたが、現在哲学者としての評価が高いのは、いうまでもなくヘーゲルのほうだ。ある大学教授と話したとき、彼はこう洩らした。「けっきょく内容うんぬんじゃなく、マジョリティーを得られなければ批評じゃないんだよ」。私は、現代美術の界隈のセマさから来るある種の沈黙をしっている。意外なことだが、この界隈では下手をすると一般の会社よりずっと人を年齢で判断するのも、また事実。「誰もいいたいこといっていいって訳じゃないんだよ、オトナ気ない。」なるほど、筋の通った意見だが、そもそもいいたいことが無い人間のいうセリフではない(しかしこれを自問したことのない人間のセリフとしては、大人とか子供以前というイミで説得力はある)。

しかしこのような「君のために、怒ってあげてるんだから」的自己弁明は放っておいて、本題に入ろう。ここ数年感じてきてはいたが、まるで環境問題のようにでも、実情は深刻化しているようなのだ。最近、とある美術について書かれた、想像を絶する悪文を読んだ。ブログや趣味ではなく、れっきとした一つの媒体にしかるべく原価を投機され、掲載されてたものである。私はいままでドイツ語でも英語でも日本語でも、こんなにひどい文章は見たことがない。

今さら声を大にしていいたいのだが、昨今の批評のレベルは、あまりにも酷い。私がここでいっているのは、積年キャリアの世代には当てはまらない。むしろ、30歳前後、あるいは30代の方々の文章である。恥ずかしいことに実生活であまりきちんんと人の文を読むことはないのだが、この前たまたまよんだそれは、ほんとうに絶句レベル。現代美術の言説域では、笑えない深刻な砂漠化がすすんでいて、ぶっちゃけそんなん個人責任なのでどうでもいーのだが、何が怖いかというと、そういう文を「本気で」批評だとおもってる人たち=マジョリティーが、生息しているらしいからである(隊長、あそこの山肌になにやら人影らしきものが!)。

私が寒いのか、彼らが寒いのか。これが気になって筆をためらっていたのだが、この連載はまた「独白」というレベルの行為に、少しだけなら利用するのも許されるかと思い、書いてみよう。だからこのテクストは、いきおい120パー「感想文」であり、つたない番外編である。なので「お前が言うな」というツッコミも、全然ありである。

最初にことわっておくと、私はその文章の著者と面識があり、特定につながる判断材料は撒き散らせない。なにしろ悲しいかなここはムラ社会であり、1000歩くらい譲ってその人にもお遊びでなく「文責」という観念があるとしたら、やはり止めを刺すのははばかれる。

広く文筆にいえることだと思うが、出版社なりそれに準ずる機関から執筆の依頼をうける場合、もらったテーマが自分の興味や知識の範囲に、完全にはおさまらない場合がある。とくに批評でいえば、デザインや宣伝コピーのように定式化された決まりごとの要素がうすいため、依頼を受けた側は自分の専門領域をつかって果たしてその仕事がこなせるかどうか、はかりにかけた上で仕事を請けなければならない。先に答えを言ってしまえば、この人にはどうやら、そもそも「専門領域」がないらしく、しかもそれを文章内で、自らの思想的特性として暗に(あるいは下手なので、あからさまに)アピールしているのである。

レストランで料理をオーダーしたはずなのに、「お待たせいたしました」と皿だけ持ってこられたとき、おそらく大半の人はまず反射的に自分の側のミスを考えるはずだ。この人に天才的であるのは、こうした唖然とするような代価に対する社会責任の放棄を、まったく無自覚的に読み手になすり付けられることである。目を見張るような脱社会行為に、何人かの「家事手伝い」が困惑したような声をあげる、「わ〜すごい、現代美術ってこういうことなんだね!」マジョリティーとは彼らである。そしてこの批評によってうやうやしく指さされた皿の上の空気が、おそらくこの国の「現代美術」になろうとしている。

「専門領域」をもたない批評家に、手持ちのカードを見せてもらおう。しかし、こういうときにも彼「ら」は得意げである。いわく、「アートだ、アートじゃないってさ、そんなの意味ないんじゃない?一人一人が決めればいいことだし、マンガだってグラフィティーだって、僕らにとって意味がある事が大事。」とか「芸術は終焉して、アートになった。くくりがなくなったこの時代を、もはやフォーマルな批評は語れない。」とか、仮想敵をはずしたら一体全体その主張は成り立つのかという瞬殺のツッコミはおくとして、一番問題なのは、無垢な彼らが自由にあやつる、「アート」という言い方である。

私はドイツで学生をしていた頃、別のイミで想像を絶する人に幾度か会った。白ロシアから来たその知人は飛び級でドイツの大学に入り、修士をおさめてからソルボンヌで博士をとった。ベルリンにある個人コレクションの法人に就職した彼の「専門領域」は、ヨーゼフ・ボイスである。複雑な気もするが、ヨーロッパではこの手の神童は、やはり経済や政治状況のよくない国からの留学生が多い。要は、才能もあるが「たたき上げ」である。勉強量など本当に半端ない。かくいう私も修士に入ってからは国立図書館がすっかりセカンドハウス化していたが、彼らは文字通り死ぬ気で美術史をまなんでいたのだとおもう。

「そうなれ」とはいわない。いえない。しかし、「アート」という日本語英語が商業用語であるという事を嗅ぎとれない平和ボケは、彼らの本質的な「寒さ」である。文献調査してるわけじゃないからこちらも大見得はきれないワケだが、80年代前半からパルコ系の催事の一環、あるいはセゾン系の出版活動を通して「アート」という表現が一般に定着していったのはほぼ間違いないし、よくも悪くも彼らは「批評」という立場にありながら、その心地よい天蓋のうちに「アートじゃない、アートだ、いやもう終わった」とか勝手にいってるのであるから、この意味でははっきりと時代遅れだ。

世代に関係なく、大方の批評家には個人個人、この文化的土壌の差が認識されている(とおもう)。でなければ研究者としての自己同一性は破綻してしまうし、影響史という点でも、アートの知識を母国語によって伝達し、それに価値を与えようと邁進することは、立派に生業となりえる。

ハナシが硬くなってきたついでにいうと、80年代のシミュレーショニズムにさえ衒学性と解釈学的反省のなさは満ち満ち溢れていたのだが、それでもそれが批評として機能してこれたのは、おそらく「脱構築」というフォーマットの援用によってである。この場合の脱構築とはごく簡単にいって: 1.美術史や政治学、哲学をベースにもってくる 2.それについて論じる、つまりはその言説内部へと批評主体が入り込む 3.と、おもったら自らの破綻や矛盾をみつけ、内部から自己犠牲によって亀裂を広げるように新しい意味領域をつくり 4。今度はそっちのあらたな主体のほうに「逃げる」  という方法論である(わかりにくいけど)。

ところで、くだんの「著者」は、そうではなく何をしようとしているのか?わからない。わからないから怖い。しかし私の想像するに: 1.そうじゃなくって、この時代はベースそのものがないのが新しいんだよ 2.だから好きなもの同士みんなで自分たちのカルチャーをつくろうよ 3.なんだか難しいことなんて捨てれば、ほらアートの新しい価値が開ける 4.大切なのは一人一人のオンリーワン 5.そんな俺って、かっこいい?  というあたりか。

上に述べたように、個人的な関係からこの「悪文」について明かせないのだが、書いてあるのはなんとなくそういうことであった(ちなみに、それはある一人のアーティストについての長文であるが、驚くべきことにそのアーティストの作品について「一言も」書かれていない)。ここには路上でアンプをつなげ、通行の邪魔になりながら自分のつくった歌詞に酩酊(めいてい)してるストリート・シンガー、あるいはもっといってMihimaruなんとかみたいなラップの希薄さと、かなり近いものがある。これらの史上最高にバカなのは、「オンリーワン」で仲間=複数を前提としているその自己矛盾をものともしない、自らの歌(文章)へのすさまじい陶酔に他ならない。あるいはこざかしくニーチェでも引いて(誤用)陶酔の自己描写でもすればそれこそ「脱構築」できるのだが、いかんせんアートの商業性によって遠来した「お勉強」に傷ついたナイーブな心は、実は自らが求め主張しているものがこの「商業性」だったという皮肉に気づけない。

いや、Mihimaruなんとかには謝ろう。彼らの活動の目的はメジャーでの商業的成功と銘打たれ、しかるべき仕事をしてるのだから、商業性で非難されるいわれはない。そして美術批評がマーケットにつながらないこの国で批評をする限り、批評も消費物で終わる運命を、しりぞけることはできない。にもかかわらず、そこにある種の説得性を与えるのが、書き手のきずいてきた、文体や専門性、方法論だったりする。それこそ脱構築ではないが、これらによって消費物として飲み下しきれない、ひっかかる何かを読者にあたえられなければ、少なくとも批評とはいえない。

では、せめてその人にとっての方法論は、存在するのか?多分ある。それが上に挙げたような、「アートは止そうよ、マンガ・グラフィティー・ファッションじゃん」式の言い草「そのもの」である。だからこれはタコ焼き屋にいってナマの蛸と小麦粉を手渡されたようなもので、常人には方法論とはよべないのであり、その人が大文字のアートと思い込んでいるものを叩きたいがために持ってくる借り物にしかすぎない、つまりはホンモノのマンガ史の専門だったりグラフィティーに特化、精通した上でものを言っているワケではないので、「差異化」が出来ないのである。しかもベースとなる思想も要らなーい、となると、私たちは液状化現象にいたり海のものとも山のものともつかなくなった文字列のカタマリを、とりあえずその人のありのままの自己表現として受け取るほかない。

これが、批評である。知識もいらない。対象もいらない。アートもいらない。方法もいらない。なんで?ダサイから。こんな日本・現代・美術。

サワラ○さん風にいうと、彼/彼女はすべてを与えられ同時にすべてを失った、空っぽな「リバーズ・エッジ」世代のなれの果て、といったとこだろうか?なのでそういう意味では、きわめて完成度は高いのである。しかし私は、声を大にしていいたい(アゲイン)。

マジョリティーを狙いながら個人主義をほめたたえるよーな「微分・ポップ」がほんとうに商業性へと迎合していくとき、私たちが目の当たりにするのはおそらく「アートの終り」といった聞こえのいいおとぎ話ではない。ぜんぜん。それは、「趣味にはじまり趣味に終わる」、つまりは言論にとりあげる必然のなくなった真のユートピアを自らのなけなしの社会的地位に利用する「ねずみ講」や新興宗○の論理であり、「鎌倉時代に海を渡ってかの御霊が...」とか、「学生さんでも、ローンでやってる人いっぱいいるんですよー」とかのたぐいと、まったく変わらない。

もしこのページを読んだら××さん、その時までに批評でも「アート」でもない、新語を考えついといてください。よろしくお願いいたします。

しかし同時に私は、彼(ら)率いる、新種のマジョリティーを目にしてみたいという秘かな欲動も禁じえない。純粋に生物学的関心として。「たしかにあそこの岩陰に居たんです、隊長、見たコトもない毛むくじゃらで8フィートはあろうかという巨体の....そう、なんというかその、あれは人間ではありませんでした」







Copyright (C) 2005-2008 LOAPS. All Rights Reserved