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ニューヨーク1
ニューヨークに飛ぶ機中で、ソフィア・コッポラの『マリー・アントワネット』を観賞。感想を先に述べれば、前作の『ラスト・イン・トランスレーション』で、アメリカ人の主人公が日本語のカオスに自己を見失ったのとは反対に、『マリー・アントワネット』は、18世紀フランスの宮廷が舞台であるにもかかわらず、主人公のみならず周囲の人物も英語の台詞を押し通すことで再び自己を取り戻した、といえばよいか(唯一人マリー・アントワネットの娘が、またマリー・アントワネットも歌のシーンではフランス語で話していた)。
勿論マリー・アントワネットは、ソフィア・コッポラのようにアメリカ人ではなく、オーストリアのハプスブルグ家から政略結婚でフランスのルイ王朝に嫁いできたヨーロッパの名門の出だが、最後にはフランス革命であっけなく処刑されてしまう。これはロスト・パラダイスの物語である。歴史の無常な歯車に巻き込まれた犠牲者のこの哀れな女性の半生を、ソフィア・コッポラはすっきりと描ききって清清しい。
この映画がコッポラのファンタジー(プリンセス願望)だからこそ、英語が喋られても不自然さを感じないのだろう。マリー・アントワネットの性格を素朴だが独立した自我として形成しているところなど、よく考えれば本当らしくない設定があったとしても、それがこの監督の想像の産物だと納得すれば許される。なにより彼女のファンタジーの守護精霊であるかのような主人公役の女優の、ちっとも綺麗ではないのに無性に愛らしい姿が、その証拠となる。彼女が流行の装身具を漁るシーンなどは、シルヴィー・フルーリーの作品を見せられているようで初々しい。
同じ機中で若い日本人女性と偶然隣り合った。彼女に話しかけたところ、主にモダンを踊るダンサーで、子供のころからバレーを習い、アメリカに来て今は亡きマーサ・グラハムに師事し、現在はブルックリンに本拠をもつ小さなダンス・カンパニーに属しているという。彼女と話しながら、15年以上前にニューヨークに来たときも、マーサ・グラハムの日本人ダンサーと出会い、それがきっかけで公演を見に行ったことを思い出した。隣の彼女も言っていたのだが、ニューヨークにいると他のジャンルの芸術と身近に触れる機会があるのに、日本では疎遠になってしまうのは何故なのか? 他ジャンルの表現でも、同時代の意識としてお互いに共通するなにかがあり、自分の活動に役立つはずなのに惜しい。彼女には、すぐ始まるニューヨークのアートフェアを見るように勧めておいた。
他分野との接触ということでいえば、小野洋子は、ビートルズのジョン・レノンとの恋愛で何を得、何を失ったのか? それに答えるインタヴュー記事がTime Outに載っていた。彼女は、犠牲にしたものはアーティストとしての信用だと述べていたが、ジョンと一緒になってアヴァンギャルドの運動から切り離されたことについては、アヴァンギャルドはすでに陳腐なものになりさがっていたから後悔はないと語った。フルクサスが、アヴァンギャルドの最後の灯火だったのかと、インタヴューがその紹介となる彼女の新譜“Yes, I’m a witch”を聴きながら思った。小野にとってwitch(魔女)とはすべての女性であって、彼女たちはmagicalだという。コッポラの映画に登場した女性たちもみなwitchだったのだろうか?
観客の方に目を向けてみよう。最近まで観客参加型のアートが流行っていたが、そのどれもが、格好だけの参加あるいは体験に終わっていたように思う。参加の意味するところが、観客に伝わっていなかったのではないか。見かけは積極的な参加に思えて実は単なる消極的な受容にすぎなかったのでは? つまり観客は、参加することを通して一時的な気晴らしや一体化の喜びだけでなく、能動的・持続的に働きかける力の感覚を掴んでいなかったのではなかったか。行為を強いられるのではなく、自発的に参加・体験する自己肯定的な行動。それによって、自分を含む世界を動かす未来の可能性を素描し、それを潜在的な図式として記憶に刻み込む。アートは、本来そのような活動のモデルを提供することができるはずなのに、それを首尾よく成就しているのは、アートではなく大衆文化の一部だとしたら・・・。
ニューヨークのハーレムにある有名なアポロ・シアターで、1930年代から行なわれている有名なアマチュア・ナイトがある。そこで、そのような積極的な観客参加のパフォーマンスを目の当たりにした。アマチュアという名の普通の人間が、舞台に上がってプロを目指すというのであれば、アメリカのみならず日本のテレビでもよく見かける。アポロ・シアターのそれは、アマチュアが舞台に乗るだけではなく、客席にいる人間が、共に演技(歌う、踊る)したり審判したりすることで、客席にいながらにして舞台上のアマチュアと同じ立場のパフォーマーとなるのだ。これが、その場に居合わせた人々に、物事を動かす力の充実した感覚、そして、それを作用させて世界を変革する可能性への熱狂的な憧れを掻き立たせる。
無論、そこに不安がないわけではない。劇場にいるのは全員がアマチュアで、それゆえ参加の道が開かれるのだが、その力が解放されると同時に、容易に操られ回収されて既成の秩序に取り込まれる危険も大いにあるからだ(ほとんどの場合がそうなる。このアマチュア・ナイトが終われば、しばしの一体感を享受した人々はばらばらに帰途に着く)。しかし、参加型のアートの大半が、参加は名ばかりのイカサマであったことと比べれば、こちらのほうがまだましというものだ。スター・システムによるテレビショウの観客の笑いの欺瞞(ニセの参加)を暴くのも、このような直接的なコミュニケーションではないか。その晩、周りの魅力的な黒人の子供たちに混じって、腰の重いぼくでさえ立ち上がり体をくねらせ叫び声を上げたことはいうまでもない。
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