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アイデンティティの形−主に卒制作品から
2008年に入って、美術大学の卒業制作の作品を見る機会があったので、まず、これをまとめて報告したい。
京都造形芸術大学の美術工芸科の明石雄の絵画を取り上げる。彼は、フェイクファーや砂といった扱い方の難しい素材を使って表現してきたが、それらに絵具を加えて必死に格闘しながら、画面全体のために細部が犠牲にされるのでもその逆でもない、全体と細部が見事な調和を奏でるまでに仕上げた。それによって、図と地の分離が防止されるだけではない。浮かび上がる頭部のイメージと、それがそこから現われるノイズ(カオス)の間に不可視な振動が生まれ、表現の強度を増大させるのだ。今後、使用された素材と画家自身との関係を明確化できれば、作品のさらなるレベルアップが図れるだろう。
明石雄
同じく京都造形、映像・舞台芸術学科の卒制公演からgallop企画の『馬の最も早い走り方』。このダンス・パフォーマンスの進行は終わりから始まる。すなわち、公演後の反省からスタートして、幕開けがラストにくるという構成になっている。このパフォーマンスが興味深いのはこれだけではない。最初に裸体の男女4人が登場することである。脱衣から着衣へ通常のやり方とは反対のコースを辿るのだ。この意表をつくコレオグラフィーで、観客に裸体に対する抵抗を予め解除することに成功した。この舞台では、裸体は現実での着衣と同様、当たり前に思える。しかし、裸体ほど意味の強いものはない。とりわけアイデンティティがテーマの作品では、裸体は無言であっても、自らの個性を申し立てる。男女の性差だけではなく、各々の身体の具体的形状から、その人間の外面の特徴はもとより内面の性格まで読み取れるのだ。しかし、彼らが身体を露わにするにせよ、それをアイデンティティの証しにしていないことは、ダンスからはっきりと見て取れる。言語に対する嫌悪や、公演の最中にまとう種々の衣服を仮の住まいと考えているのと並行して、彼らは自身の身体をアイデンティティの根拠にしない。彼らにあって身体、言語、衣服は断片化され、暗黒の終末に至るまではかなく浮遊しているのである。
gallop
東京造形大学では、大学院の狩野仁美のインスタレーションに強いインパクトを受けた。彼女の作品の構成要素は、プリミティヴかつシンプルである。砂が主役であり、それは大小の塊の状態で、無造作に床に置かれている。勿論、これは彼女が意図的に配置したものだ。壁に投影された砂の形態の来歴を説明する映像は、この作品が、素朴な自然回帰や無知な子供の遊びなどではなく、アーティストによって緻密に計算された演出であることを物語る。この映像によって照らし出される作品は、既存の紋切型の概念を一気に突き抜け、概念なき存在へと到達するための装置として機能する。それも概念を下から突き抜けるといった荒業を仕掛けているのである。
狩野仁美
同じく映像学科の卒業生のドキュメンタリーは、自らの妊娠、出産経験をリアルタイムで映像化し、少子化と人口減少の時代に子供をもつことの意義を問う。彼女の周囲には妊娠にまつわる悲劇的な茶飯事が転がっているのだが、妊娠と出産について肯定的に考える主人公の前向きの姿勢が、子供をもつことが困難な現実を側面から批判する力を秘める。観る者に、これからは子供を作ろう!と思わせる力作。(この作者の名前を失念しました。ご存知の方は是非教えてください。)
武蔵野美術大学では、絵画科の4年生の作品が面白かった。田中亮、赤羽史亮、松尾慎太郎、大瀧歩美らの絵画作品は、現代絵画の基本(ツボ)を押さえている。フェティッシュをいかに出現させるかに、彼らの基本的な関心が向かっている。それを、絵具の巧みな使い方で示した。彼らの表現に深いテーマさえあれば、もっと強度が増すのではないだろうか。空間演出デザインでは桝田由紀子、映像学科では大仁田弘志(ヴィデオ)、安達英莉(写真)が気になった。
田中亮
赤羽史亮
松尾慎太郎
大瀧歩美
東京芸術大学では、絵画科大学院の根本寛子を取り上げてみたい。彼女の作品は、ファンタジックな物語の挿絵のようにも見える。しかし、彼女の絵画に登場するヒロインの女性の後姿には、そのヒロインに素直に感情移入することを妨げるような不穏な空気を感じる。それが、ヒロインが覗き込んでいる鏡に映されたライオンの像であり、そのライオンがピストルを構えて彼女に銃口を向けていることの効果である。画家は、この二人の登場人物のうちのどちらに感情移入しているのだろうか。その二人に、半分同化し半分距離をおいている。この距離感が、根本の作品に比類ない微妙なバランスを与える。彼女は、ヒロインに同化しつつ、その後姿を密かに覗き見てもいる。ヒロインの醸すエロティシズムは、ライオンの持つピストルから生じるのではなく、それをカムフラージュとしながら、画家の眼差(別の銃口)がもたらすフェティシズムが、死を微かに予感させるエロスの香りをヒロインにまとわせるのである。画家には、子供っぽいメルヘンチックな題材ではなく、ヒッチコックの『めまい』や『裏窓』のような、スリルとサスペンス満載のメロドラマのシーンを描いてもらいたい。そうすれば、彼女の冷ややかな視線の先に、つねに囚われの悲劇のヒロインやヒーローがいるはずである。それもまた、甘美な悪夢であるに違いない。
根本寛子
最後に、私が関わっているmagical,ARTROOMの六本木のスペースが、2月で閉められることになった(6月に恵比寿で再開します)。その前に行われた新人企画展「WORM HOLE 10」で、栗山斉のライト・インスタレーションが展示された。この作品に、物はまったくない。不定期に明滅する蛍光灯の光が空っぽの空間をコントロールするとともに、ギャラリーの空間の輪郭を浮かび上がらせては消し去る。その様子に鬼気迫るものがあった。magicalの存在を末永く脳裏に刻むのに、最高の作品を得たことを喜びたい。
六本木のmagicalよ、永遠なれ!
栗山斉
ニューヨーク1
ニューヨーク2
京都
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