LOAPS TOTAL ART SITE

SERACH

現在の作品数:40387


SITE NOTICE
How to enjoy LOAPS
Privacy Policy
Contact
Volunteers
Help



今年のカンジュ・ビエンナーレは凄い!

多様性と美―第7回カンジュ・ビエンナーレを見て

 第7回カンジュ・ビエンナーレで芸術監督を務めるオクウィ・エンウェゾーは、プレス・オープニングの会見で、1990年代アートに根本的な変化が生じたが、カンジュはその先駆的役割を担ったと述べた。歴史的に見れば、モダンアートの活動の中心は欧米にあったが、中心を外れる傾向をもつ現代アートは、欧米からその他の地域、とりわけアジアに活動の拠点をシフトするということだろう。


−カンジュ・ビエンナーレのメイン会場(Biennale Hall)

確かに、20世紀の終わりから21世紀の初めにかけて、アジアの現代アートの活躍は目覚しい。まず1990年代に、ポスト天安門事件世代の中国の現代アートが世界的に注目され、20世紀最後のヴェニス・ビエンナーレ(1999年)において、ディレクターの今は亡きハラルド・ゼーマンが、中国の現代文化の消息を伝える多くの中国人アーティストを招聘し、ビエンナーレの話題をさらった。
しかし、それ以前からアジアにおける現代アートは、確実に根を張ってきた。その指標となるのが、ビエンナーレの存在だろう。現在では世界中で数多く開かれているビエンナーレだが、アジアでも90年代後半から次第に目につくようになった。特に東アジアで開かれているビエンナーレは、規模の大きなものを挙げれば、カンジュとほぼ同時期に開始された上海、台北、同じ韓国の釜山、そして2006年に誕生したもっとも新しいシンガポールがある。しかし、前述の100年以上の歴史があるヴェネツィアや、半世紀以上続くブラジルのサンパウロと比べれば、アジアでもっとも古いカンジュでさえ、1995年に第1回目が開かれた若いビエンナーレである。

−カンジュ・ビエンナーレの会場(Uijae Museum of Korean Art)

この時期、このようにアジアでビエンナーレが行われるようになった理由は、はっきりしている。20世紀末、アートにエンウェゾーが言うような大きな変動が生じ、現代アートに対する関心が世界的に高まった。その文化的・社会的効果を無視できなくなったアジアの各国も、その波に乗り遅れまいと、新たに生成する文化のモデルとして、現代アートを積極的に支援する姿勢を整え始めたのだ。それが、90年代から2000年代にかけて、複数のビエンナーレの出現につながったのである。
ところでビエンナーレに出展される作品は、アートの市場で取引される作品とは一線を画する。市場で流通する作品のほとんどすべてが、娯楽を供するスペクタクル性を軸に構成されるのに対して、ビエンナーレの作品は、社会性や政治性をテーマに批判や変革を訴える表現が主流である。とりわけカンジュは、1980年のいわゆる「光州事件」で周知のように、韓国における民主化運動のシンボルとして、政治的・文化的に揺るがぬ地位を占めてきた。今回のビエンナーレもそれを強く意識して、その趣旨に市民社会と民主主義の問題を含め、それらをめぐるセッションも開かれる。

さて、過去にカンジュで開かれたビエンナーレのタイトルを順に追っても分かるように、アートに関する時代の最先端のアイデアを、テーマとして取り上げている。「Beyond the Borders」(95年)、「Unmapping the Earth」(97年)、「人+間」(2000年)、そして2002年の「PAUSE」。「PAUSE」では、立ち止まって反省する意義を強調するばかりでなく、他のビエンナーレでは見られない興味深い展示として、個々のアーティストの作品に混じって、オルタナティヴ・スペースやアクティヴィストの活動の模様を紹介した。また2004年の「A Grain of Dust A Drop of Water」と冠されたビエンナーレでは、「The Viewer-Participant」という斬新なコンセプトの下、一般から選ばれた鑑賞者と参加アーティストのコラボレーションの作品を陳列した。そして前回の「Fever Variations」では、企画展の一セクションを、グローバル化した世界をラディカルに批判する政治的表現に当てるといった大胆な構成で際立った。2008年の今回、会場の一角に、これら過去のビエンナーレを回顧するコーナーが設けられたことは、こうした実験やその変遷を理解し評価する上で非常に有意義だったろう。
このように毎回野心的なテーマで展覧会を組織し、鑑賞者の真摯な思索を刺激してきたカンジュ・ビエンナーレは、2008年の芸術監督にエンウェゾーを迎えた。彼は、言うまでもなく2002年ドクメンタ11の芸術監督に指名され、いわゆる多文化主義の総決算と呼ぶべき重厚な展覧会を企画し実現させた人物である。エンウェゾーが今回のビエンナーレのために用意したタイトルは、「Annual Report: a Year in Exhibitions」であり、その最大の特徴は、ビエンナーレにアーティストではなく、「展覧会を招待」することにある。「展覧会の展覧会」を「コンセプチュアル・ストラクチャー」とするビエンナーレは、「On the Road」、「Position Paper」、「Insertions」の三つのセクションで成り立っていて、「作者の集合の場」と「出会いの空間」を作り出すことを目的にしている。いずれにせよこのビエンナーレは、一つの大きな展覧会のなかに多くの小さな展覧会がはめ込まれている、といった基本的構図で理解されよう。では、展覧会の目的についてはよしとして、エンウェゾーが「展覧会の展覧会」という一見複雑な構成を試みた意図は、どこにあるのだろうか? それら三つのセクションをはっきりと区別して展示しないことでも窺い知れるように、今回のビエンナーレは、以前とは正反対に明確なテーマをもたない。その理由を、エンウェゾーは、テーマを決めることで、鑑賞者の見方を限定することを避けたと言う。鑑賞者を、展覧会でどのような作品に出会うのか、つねに開かれた状態にしておきたいということである。そのための装置として、「展覧会の展覧会」という概念が練り上げられた。同じビエンナーレ内の、ある小さな展覧会で出会った作品は、別の小さな展覧会で出会う作品とは、まったく異なっている。たとえば「Position Papers」で言えば、Patrick D.Flores企画の「Turns in Tropics: Artist-Curator」と、Jang Un Kim企画の「On Jouissance for those without places to return」と、Claire Tancons企画の路上で行われた仮装パレード「Spring」との間に横たわる隔たりは、どれほどのものだろうか! したがって、ビエンナーレという大きな展覧会は、そのなかの複数の小さな展覧会のおかげで、つねに開かれている。今回のビエンナーレが、おざなりではない多種多様な表現を揃えることのできた原因は、まさにここにある。

Glen Ligon

テーマを決めることは、それに準じて作品を選出し、かつ表現の意味を掘り下げられるという長所をもつ。しかしそれと引き換えに、問題の視野が狭められるという欠点を背負い込む。たとえば、2008年に開かれたアジアのビエンナーレでは、カンジュと似た傾向の作品を並べた台北は、「グローバリズム」というテーマを掲げたが、テーマに制約されグローバリズムの生み出す悲惨な現実や、それに対する抵抗や闘いといった限定された内容になった。しかし、それ以上に厄介なのは、形式に粗雑さが感じられる作品が見受けられたことだ。それは、鑑賞者に重要なメッセージを熟考させる妨げにもなるだろう。
21世紀に入って、文化的な差異を固定し永続化する多文化主義の負の局面が批判されてきたが、カンジュ・ビエンナーレでは、その課題は克服ないし修正されているのだろうか。それは最終的に、エンウェゾーと彼の下でビエンナーレの企画に携わった二人のキュレーターRanjit HoskoteとHyunjin Kimが選出した展覧会と作品を検討すれば分かる。たとえば、Bruce Yonemoto、Issac Julien、Steve McQueenの作品を見れば、単に人種、民族、移民、植民地の問題を扱っているのではなく、それらが多層的に絡まる歴史的・社会的な事実を、時には虚構を交えながら、できるかぎり総合的に表現しようとしている。Yonemotoは、アメリカの市民戦争、アジア系人種の移民、ハリウッド映画の問題、Julienは、カリブ海からの移民と地中海を通過する移民の問題、McQueenは、アフリカの人民と資源と貧困、高度なテクノロジー、グローバル資本主義の問題を取り上げ、ステレオタイプ化された文化概念を寄せ付けないまでに、様々なレベルで反省的に探究し、世界における人間、事物、情報の交流を作品に折りたたみ内在化させているのである。

Mona Marzouk

Jeninifer Allora & Guillermo Calzadilla

この展覧会のコンテクストでは、出品作が見かけ上単純に思えようと、世界の様々なレベルが関与して、作品の単純な意味に深みが付け加わる。さて、この深みとは一体何なのだろうか? Gordon Matta-Clarkの作品が、その問いにもっとも雄弁に答えてくれよう。家屋を切断する彼の諸作品は、家という社会的に重要な機能をもつ事物を毀損することで、逆にその機能や意味を明らかにする。が、そこに留まることなく、家という存在に関わる人間の、自然と人工の狭間で、それらと分かちがたく結びついている実存の姿をも暴いてみせるのだ。深さとは、この実存から発せられる声なき叫びだろう。
今回のビエンナーレに参加した作品に共通する最大の特徴は、この実存を例外なく隠し持っていて、Lili DujourieやAlfred Wenemoserの彫刻、Area ParkやDayanita Singhの写真から感じ取られるように、それらの複雑あるいは単純な意味にもかかわらず、視覚的な美を生み出す力になっている。その美は、調和やバランスといった外的な美的判断の帰結ではない。作品を構成する諸々の意味の根底にある実存の核にまつわる無意味さの強度こそが、この美の原型である。それは、Peter FriedlやJooyeon Parkの表現の暗示的な主題となっているニヒリズムの一種ではあるが、けっして死に至る自己否定を意味するものではなく、Ursula Biemannの作品に登場するパレスチナ難民が訴える生への意志と表裏一体をなす感情的な価値である。だがそれは、現代においてわれわれが置かれているグローバルな苦境そのものの反映でもあるのだ。


Movement, Contingency, and Community

Hassan Kahn









Copyright (C) 2005-2008 LOAPS. All Rights Reserved