確かに、20世紀の終わりから21世紀の初めにかけて、アジアの現代アートの活躍は目覚しい。まず1990年代に、ポスト天安門事件世代の中国の現代アートが世界的に注目され、20世紀最後のヴェニス・ビエンナーレ(1999年)において、ディレクターの今は亡きハラルド・ゼーマンが、中国の現代文化の消息を伝える多くの中国人アーティストを招聘し、ビエンナーレの話題をさらった。
しかし、それ以前からアジアにおける現代アートは、確実に根を張ってきた。その指標となるのが、ビエンナーレの存在だろう。現在では世界中で数多く開かれているビエンナーレだが、アジアでも90年代後半から次第に目につくようになった。特に東アジアで開かれているビエンナーレは、規模の大きなものを挙げれば、カンジュとほぼ同時期に開始された上海、台北、同じ韓国の釜山、そして2006年に誕生したもっとも新しいシンガポールがある。しかし、前述の100年以上の歴史があるヴェネツィアや、半世紀以上続くブラジルのサンパウロと比べれば、アジアでもっとも古いカンジュでさえ、1995年に第1回目が開かれた若いビエンナーレである。
−カンジュ・ビエンナーレの会場(Uijae Museum of Korean Art)
さて、過去にカンジュで開かれたビエンナーレのタイトルを順に追っても分かるように、アートに関する時代の最先端のアイデアを、テーマとして取り上げている。「Beyond the Borders」(95年)、「Unmapping the Earth」(97年)、「人+間」(2000年)、そして2002年の「PAUSE」。「PAUSE」では、立ち止まって反省する意義を強調するばかりでなく、他のビエンナーレでは見られない興味深い展示として、個々のアーティストの作品に混じって、オルタナティヴ・スペースやアクティヴィストの活動の模様を紹介した。また2004年の「A Grain of Dust A Drop of Water」と冠されたビエンナーレでは、「The Viewer-Participant」という斬新なコンセプトの下、一般から選ばれた鑑賞者と参加アーティストのコラボレーションの作品を陳列した。そして前回の「Fever Variations」では、企画展の一セクションを、グローバル化した世界をラディカルに批判する政治的表現に当てるといった大胆な構成で際立った。2008年の今回、会場の一角に、これら過去のビエンナーレを回顧するコーナーが設けられたことは、こうした実験やその変遷を理解し評価する上で非常に有意義だったろう。
このように毎回野心的なテーマで展覧会を組織し、鑑賞者の真摯な思索を刺激してきたカンジュ・ビエンナーレは、2008年の芸術監督にエンウェゾーを迎えた。彼は、言うまでもなく2002年ドクメンタ11の芸術監督に指名され、いわゆる多文化主義の総決算と呼ぶべき重厚な展覧会を企画し実現させた人物である。エンウェゾーが今回のビエンナーレのために用意したタイトルは、「Annual Report: a Year in Exhibitions」であり、その最大の特徴は、ビエンナーレにアーティストではなく、「展覧会を招待」することにある。「展覧会の展覧会」を「コンセプチュアル・ストラクチャー」とするビエンナーレは、「On the Road」、「Position Paper」、「Insertions」の三つのセクションで成り立っていて、「作者の集合の場」と「出会いの空間」を作り出すことを目的にしている。いずれにせよこのビエンナーレは、一つの大きな展覧会のなかに多くの小さな展覧会がはめ込まれている、といった基本的構図で理解されよう。では、展覧会の目的についてはよしとして、エンウェゾーが「展覧会の展覧会」という一見複雑な構成を試みた意図は、どこにあるのだろうか?
それら三つのセクションをはっきりと区別して展示しないことでも窺い知れるように、今回のビエンナーレは、以前とは正反対に明確なテーマをもたない。その理由を、エンウェゾーは、テーマを決めることで、鑑賞者の見方を限定することを避けたと言う。鑑賞者を、展覧会でどのような作品に出会うのか、つねに開かれた状態にしておきたいということである。そのための装置として、「展覧会の展覧会」という概念が練り上げられた。同じビエンナーレ内の、ある小さな展覧会で出会った作品は、別の小さな展覧会で出会う作品とは、まったく異なっている。たとえば「Position Papers」で言えば、Patrick D.Flores企画の「Turns in Tropics: Artist-Curator」と、Jang Un Kim企画の「On Jouissance for those without places to return」と、Claire Tancons企画の路上で行われた仮装パレード「Spring」との間に横たわる隔たりは、どれほどのものだろうか! したがって、ビエンナーレという大きな展覧会は、そのなかの複数の小さな展覧会のおかげで、つねに開かれている。今回のビエンナーレが、おざなりではない多種多様な表現を揃えることのできた原因は、まさにここにある。
Glen Ligon