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市原研太郎のMarginal Diary
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アイデンティティの形−主に卒制作品から
男と女と怪物、ある愛の形+第1回台中アジア・ビエンナーレ
男と女と怪物、ある愛の形+第1回台中アジア・ビエンナーレ
去年のヴェネツィア・ビエンナーレで、台湾代表の一人に選ばれた映画監督のツァイ・ミンリャンは、台湾のめまぐるしく流動する現実に密着し、その日常の狭間にぽっかりと開いた人間の実存の「穴」を凝視したシリアスだがユーモラスでもある映画を発表して注目を集めてきた。その彼の近作『西瓜』(2005年)は、ミュージカルとドラマを混合させた映画である。その点でも、これまでの彼の作風とはかなり異なり、明るく軽い大衆的な後味を残す。
しかし、『西瓜』が普通のミュージカルやドラマと違うのは、映画のなかの前者のパートがシリアスな現実を、後者がファンタジーを表現していることである。派手で奇抜な衣装のミュージカルのほうは、現実の厳しさを笑いとともに教える内容になっており、後者は、夢といってもそれから逃れることがほとんど困難な悪夢(現実なので)を描いている。
その悪夢とは、セックス産業で働く、つまりポルノ映画に出演する若い男が酷使された末に、惰性による感覚鈍磨や罪の意識で、まともに性欲を掻き立てる対象と出会うことができなくなり、知り合いのヒロインの女性とも不能として対応せざるをえなくなるといったものだ。この惨めな人間の悲劇は、資本主義が人間の性を商品として生産し流通させたことの必然的帰結だが、労働を収奪された男のインポテンツをいかに治癒させるかが、この映画の究極のテーマとなっている。このような性愛の徹底した砂漠化を越えて、至高のオルガスムを感じることはできるのか。
その結論は、ポルノの果てに出現するフェラチオである。笑ってはいけない。ポルノ女優との死姦(?)の撮影中、彼女を跨ぎ越してヒロインの口に突進するヒーローと、それを受け止めるヒロインがぴたりと密着するシーンが、文字通りラストのクライマックスとなる。格子窓を隔てて合体した性愛の理想の姿が、ここにある。
ところで、男性は極上の快感を得られたかもしれない。では、女性はどうだろうか? 女性のそれは、不可視の精神的なものである。セックスの前の希求の叫びと、その後の虚脱状態、そして、その時涙する彼女が見せた愛の形は、セックスとセクシャリティが一致する男女の差異の純粋な形態に遡行して、プラトンの原型的な性愛を描き出す。しかしこの物語を紡ぎ出したミンリャンの映像は、そのフェティッシュ化すなわち資本主義の搾取の常套手段であるスペクタクルを免れていたのだろうか?
このスペクタクルを逆手にとって、それを糾弾の隠れた標的としたのが、ポン・ジュノの『漢江の怪物』(2006年)だろう。この場合のスペクタクルとは、資本主義の矛盾の醜い化身、怪物グエムルのことだが、自然環境の破壊に端を発して展開されるパニック映画と物語のクライマックスでは、過去にそれと闘った学生運動の記憶まで動員されることになる。娯楽性と芸術性を一体化したとは、ジュノが評される賛辞だが、グムエルは、芸術(怪物)が娯楽(大衆)を餌として取り込まなければ生き延びていけない時代の悲しい産物なのかもしれない。日本では、娯楽が怪物を呑み込んでしまって、芸術は跡形もなくなってしまっているのだが。 両作とも、それぞれ台湾と韓国で記録的な観客数と興行収入を達成したそうだが、それも納得できる。この映画が上記のような矛盾を含んでいるからこそ、観客は無意識にも引き寄せられるのだ。ショービジネスの最大の成功の秘訣は、この辺にありそうである。
スペインのアルモドバルが監督し、ペネロペ・クルスが主演した映画『ボルベール〈帰郷〉』(2006年)は、男抜きで生きる女性の逞しい姿を描き出した骨太な物語だが、クルス/アルモドバルのコンビと言えば、『オール・アバウト・マイ・マザー』(1999年)が代表作として思い浮かぶ。とういうのも、『オール・・・』はクルスのデビュー作ではないものの、彼女が国際的に認知された最初の映画であり、アルモドバルの〈ミューズ〉になることを予感させた若きクルスの鮮烈な出現だからである。
あれから7年、成熟したクルスが登場する『ボルベール』では、どうだろうか。アルモドバルは、どうしようもない、つまり愛に値しない男を殺して生きる女性に扮したクルスの豊満な肢体を、ほとんどむっつりスケベと見紛う特異な角度で撮影している。すでにハリウッド女優として大成功を収めているクルスにとって、貧困の辛酸をなめるこの役回りは本意ではないと思うが、アルモドバルのたっての要望(?)に健気に応える熱演には、好感が持てる。にもかかわらず、主演はクルスではなく、無名の女優にしてもらいたかった。『オール・・・』において「出現」とまで驚嘆させたクルスのような存在が、この映画にも必要だったのだが、残念ながら、この物語ではそうした存在に遭遇することはなかったのである。
それは、アルモドバルの時代が終わったことの徴なのだろうか。ならば、彼の業績を振り返って、その映画に〈愛〉はあったのだろうか、と問いかけてもよい。人間は、愛なしに生きてはいける。しかし、愛のない人生は、まったく不毛である。その意味で、愛のフォルムは、つねに唯一無二であり、当人にしか知ることができない、永遠の真実なのである。しかし、人間は愚かにも、それを失った時にのみ愛のフォルムを認識する。愛のフォルムとは空虚なのだ。そのために、いかに膨大な量の涙が流されてきたことか! 「私が失ったもののなかに、もし愛があったのなら、私はその喪失のために一生を無駄に過ごしたことになるだろう。」アルモドバルの映画が訴えているのは、そのことである。
9月に開幕する怒涛のアジア地区のビエンナーレを前に、今年の初め、台湾の台中でビエンナーレが開催されていたので、報告しておこう。
これが初めての訪問となる都市、台中には、日本の新幹線技術を導入して開業したばかりの台湾高速鉄道(Taiwan High Speed Rail)に乗って、台北駅から50分ほどで到着。所要時間が短いのみならず、座席指定でも約2500円と安い。東京と比べてそれほど寒くないのに冬物のコートを着込んだ人々が往来する台北と違って、台中は気候も温暖で、のんびりと大らかな雰囲気の漂う都市である。ここ台中は、台北にはない国立の近代美術館がある。そこで去年からビエンナーレが行われ、今年の2月に終わるというので、その最終週に間に合うよう台湾行きを決めた。
さて、台中の広大な美術館で開催された第1回目のビエンナーレのタイトルは、“Have you eaten yet?”。展覧会パンフレットによれば、「もう食事は済ませましたか」という問いは、食文化をめぐるアジアの挨拶の定型として一般化しているという。と同時に、現代アートをもう見たか? あるいは、あなたはまだそれを味わったことがないの? といったニュアンスを持ったタイトルなのだろう。いささか時代遅れの気味はあるが、このビエンナーレの特徴は、アジアのアーティストに限定した人選になっていて、地元台湾を中心に、中国、オーストラリア、ベトナム、韓国、そして日本からは、澤拓、松蔭浩之と大阪に本拠を置くオルタナティヴ・スペースremoが参加していた(なぜか、その中にイスラエルとオランダのアーティストが一名ずつ入っている)。
国立台湾美術館
会場入口
会場風景
会場風景
会場風景
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