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現代美術の行き着く先
NAME: miho
TITLE:現代美術の行き着く先
作品情報:大学の美術理論の先生との話をまとめたもの。

まずは、デュシャン以前、そして以後のことだ。19世紀になり、反芸術的な動き、要するにそれまでの技術の上で成り立っていた芸術というものが技術を身につけなくても自分が芸術だといえば芸術となりえる時代に突入した。その中で、芸術家になりたいと思う若者が出てきた。芸術家と呼ばれる何かになりたかっただけなのだ。そういう者が台頭してきた時代であった。現在ではそういう風潮も珍しくはなくなってきているが当時はやはり芸術とは一種の職人的な部分もあったのだろう。
そして20世紀になり、デュシャンが起こした芸術界のスキャンダルは、もしくはマネが起こしたサロンでのスキャンダルはそれ以後一般化し、むしろ主流になってくる。それまでに重視されていた技術や、完成度などよりもむしろそのコンセプチュアルな部分に重きが置かれ、無根拠でありながらも芸術として認められるものが登場し始めたのだ。
1960年代のシュルレアリスムグループは、前衛的なものながらもその表現技法などに古典的なものを残していた。しかし、デュシャンが全てを否定した形で芸術というものの概念打ち立てたのである。
私が思うに、現在芸術というものが良くわからないもの、難しいものだという一般世間の認識はこの時生まれたのだと思う。芸術家たちが、理解不能なもの、答えのないものなども芸術として認めるというスタンスをとってより理解が困難になったのではないか。
話を戻すが、デュシャン以後、芸術と言うもののあり方が揺らぎ始めている。というのも、前衛というものはオーソドックスなものの否定から始まるものだ。それまでの古典芸術を否定して前衛芸術が生まれる。その様にして美術史は成り立ってきたのだ。ヘーゲル的な弁証法のように矛盾に対する否定で次の段階へと発展して行ったのだ。それは音楽の世界で言えばJAZZのようなものだ。西洋美術の世界ではオーソドックスなもの、伝統的な技法や流派の存在が絶対的なものであったためにその様な否定がむしろ起こりやすかったのだが、日本ではそのオーソドックスなものの不在といった現象がある。
デュシャンについて言えば、クールベやアングルが直面した問題を、間接的に継承したといえる。そして、それについての解決はない、という結論に至ったという答えしかないのである。
デュシャンにおいて、芸術についての解決、芸術とは何か、我々は何をしているのか、何をもって芸術と呼べるのかという問題について、それを解決する事は出来ないという答えが出てしまったならば、全て行き詰ってしまうのである。その答えは抽象的過ぎて、そして完結してしまっている。デュシャン以後の芸術はどこへ向かえばよいのか。
話が行き詰ってしまったのは、全てを否定してきたためだ。否定を繰り返して発展してきた20世紀という時代はもう終わったのだ。21世紀は肯定の時代である。そして行き詰まりを感じていた芸術の世界では、その成長を純粋芸術から現代芸術の場ではなく、その発展の場はむしろ大衆文化、サブカルチャーの分野で受け継がれているのではないか。以前、全てを否定してまで新たな芸術の形を探り続けたそのエネルギーは、その遺伝子はサブカルチャーの中で受け継がれているのである。音楽、メディア、ストリートなど様々な形がある多様なサブカルチャーに組み込まれたのだ。
現在考えうる、デュシャンへの問い直しはというと、一つは、展示の問題である。芸術というものを人に見せるときには様々な方法がある。画廊、美術館、複製、3D、デジタルなど多様だが、それのどこまでを認めるかといった問題である。横浜美術館で展示していた「大ガラス」は東京で複製されたものであるし(デュシャンの監修の下であったが)「遺作」はスクリーンに映し出されたものだ。しかし、その実物を見る事と、複製を見ることにはたして違いがあるのかという問題だ。コンセプチュアルアートにおいて、その現実性、実践性が重要視されるのかどうかということである。コンセプトとして成り立っていてもそれを具現化すると意外と大した事がなかったり、といったことである。コンセプトと実践のずれが生じるのだ。しかし、コンセプトのみで芸術は成立するのか。
そして、先ほども述べたがデュシャンの起こしたスキャンダルは西洋芸術の場においてであり、それは西洋以外では成り立つのかといった問題である。日本においてはそもそもオーソドックスなものの存在自体が元々揺らいでおり、それ故に否定をする事すら難しくなってしまうかもしれない。
コンセプチュアルなものの問題とも関連するのだが、デジタルの問題もある。どんな絵画でもデジタルにしてしまえば結局はピクセルの集合体、それは芸術となりえるのかということだ。しかし、デジタルアニメーションなどが出てきている現在、どれを芸術とするかという問題にそれほど意味があるのかという気もしてくる。しかし反対に、そのマチエルが持っている力、その細密さなどが逆に力を持ってくる場合もある。例えば海洋堂が食玩として製造していた動物や戦車などのフィギュアを美術として認めるかとの議論があった。造形物としての食玩のクオリティーは高く、「純粋芸術」という枠を超えて「芸術」と認められて然るべきであろう。

21世紀の芸術は、肯定から生まれるのではないか。
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miho さんの作品リスト 1  2  3    Next  ]

投稿日時: 2006-9-25 19:03
me
藤平 悟志
無題
大変難しいお話 2割理解できたかどうか・・・デュシャンに囚われているようですね 優れた芸術家の世界観に飛び込みそこから周りを見回すことは、新しい世界に目を見開かれ自身の精神的な飛躍となります そしてその世界しかありえないその先は全て闇、とさえ思えてくるものです 美術史は前時代を否定し創造する、今は肯定の時代・・・ 確かにそう思いますがそろそろやめにしませんか 芸術は人間の精神活動の根源です ロジックでかたづけられるのでしょうか? 自分の思ったとおりに感じたようにやるしかないんじゃないでしょうか 日々生きることにより敏感になり現実とぶつかっていけば何かを感じざるを得なく純粋に今必要とされているものが見えてくるのかもしれないですよ 

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